実際、その後のあやしいの状況は 芝について、「どうでもいい」と思っているユーザーが 大半であり、「戻ってきて欲しい」は皆無である ということが半ば証明された。 いまだ芝を神格化する人間はおそらく、 「しば」自身と断定してもいいだろう。
現実社会において四流ライターであり、 うだつのあがらないサラリーマンの芝にとって あやしいわーるどは唯一、自身を高名化してくれる 場所だったのである。 素人同然の表現能力しか持ち合わしていない 芝にとってあやしいは 「努力もなくカリスマになれる」 幸福な場所だったのである。
しつこいようだが、芝が閉鎖理由に対してまともな 釈明をなさなかった理由は、閉鎖理由を不透明化 することによって今日までの自身のカリスマ性を 落とさないようにするためである。 謎の部分を持ち続けていつのまでも自身を神格化 することによって彼のプライドは満足したのである。 しかし、閉鎖の後、状況は変わっていた。 退避用に皆が集まっても、芝の話題はしなくなってきた。 焦った芝は「わたしはアングラをやめる」と 宣言し、自身の存在をアピールしたものの 結局、相手にされず仕方なく別のハンドルネームとIPで あやしいに潜伏し出すようになった。 芝を批判する内容については、 「しばさんはいいひとだ」「しばさんのおかげだ」 のようなわざとらしいレスを繰り返していく。 しかし、芝の話題は日に日に少なくなり、 半ばあきらめた芝は、一あやしいユーザーとして 今も日々送っている。
悪いが、私は芝を糾弾することはやめる気はしない。 なぜなら、奴が最後に見せた醜悪な姿は 怨念としていまだ私の心に残存している。 彼の発言した「閉鎖理由」は到底我々を納得できるものではなく むしろ屈辱的な内容だったはずだ。 私は彼が誠心誠意、あやしいユーザーたちに 謝罪をし、反省を述べるまでこの抗議活動は止めない。 とりあえず今日はこの程度にしておく。
芝はネットワーカーとしては技術も中級、能力も中級。 要するに、「普通」の域から出ていないのだ。 では何が彼という存在を確立しているかと言うと 「あやしいわーるど主宰者」という立場だけである。 カリスマの正体は結局、普通の人だったのである。
たとえば芝には、「マルチ萌え」のような 幅広いジャンルに対しての「オタク的考察力」もない。 要するに社会を自己の立場から判断、推察する能力が 欠けているということになる。また、「マミー石田」のように 自己のキャラクターというものを確立し、その視点から 自身を「パロディ化」し、表現をしようとするような 技術もない。「木之本桜」のように「疑似作家」を演じ、 作品の演出をまた「疑似」するような能力もない。 はっきり言おう、芝は単なる「素人同然」である。
芝にライターとしての独自の考察力、論理性など ない。なぜなら彼は「いちネットワーカー」の 類でしかなく、それを脱却する能力を持ちあわせて いないからである。自分の低能さを露呈してしまった からこそ、あやしい閉鎖という我々の目をそらすための 行動に出たのだが、それは逆に彼が本来の立場である 「ネットワーカー」としての信頼性をなくしたことになるだけである。
あやしいわーるどを閉鎖した理由について彼の ワガママだということは誰もが知るところだが、 要するに、ハッカージャパン発売によって 自分のライターとしての未熟さを露呈してしまったため、 自身のカリスマ性の下落を抑止するため、 閉鎖という暴挙に出て、それを維持しようとしたのではないだろうか。 実際、そんなところではないか。
芝の文章としての弱点は、主観の統一がなされていない ことにある。要するに、自分自身の観点で物事を記すのか、 第三者の観点で記すのかを統一されていないから、 読む側にとって散逸した感を与える。 これはライターとして重要なことであり、読者の共感と 理解を得るためには芝は経験不足であり、 未熟である。しかし、このタイプは純粋に「下手」の部類であり ライターとしての才能がないといっても過言ではない。
ハッカージャパンを読んだ人間なら分かるとおり、 芝にはライターとしての文才はまるでない。 あの程度の文章には見え隠れするのが「知性の欠如」 「知識の欠如」なのだ。芝には知識がまるでない。 高校生の作文以下のボギャブラリーである。 やはり芝は所詮4流ライターである。 いや、ライターなど名乗るのも無理だ。 あめぞうといい勝負である。 彼らは永遠のライバルだ。